「Evolving Tradition in Japan」は、伝統文化を担い次代に繋いでいく“人”にフィーチャーしたインタビューシリーズです。様々なジャンルの日本の伝統文化のトップランナーをご紹介していきますのでお楽しみください。
過去から未来へ:徳川慶喜家の歴史的遺産とその現代的意義
竹村(JCBase):今回は、徳川慶喜家第5代にしてその家を閉じるという決断をされた、山岸美喜さまにお話を伺い、そこから逆に次世代に繋ぐことの意味に迫っていければと考えています。早速ですが、まずは自己紹介と徳川慶喜家についてお話いただけますか。
山岸氏:徳川家というと、一つの家系として捉えられがちですが、実際には徳川家の中でも12の系統に分かれているんです。これについては、徳川家の人しか意外と知らないかもしれません。その中で、徳川慶喜家というのは、実は筆頭に位置している家系なんです。大政奉還の際、徳川慶喜は徳川宗家の当主であり将軍でしたが、大政奉還によって全ての地位を朝廷に返上し、それがきっかけで新たな時代が始まりました。将軍の地位は返上しましたが、徳川宗家の立場は残さなければならないということで、天皇陛下が「徳川宗家はそのまま残しなさい」とおっしゃってくださり、当時、子供のいなかった慶喜は、田安徳川家より養子をとり、宗家を継がせました。
それが家達(いえさと)様で、そのまま徳川宗家は存続しています。ただ、徳川慶喜は自分が朝敵にさせられてしまったことを理由に表に出る立場ではないと判断し、一旦、宗家の中に籍を置いていました。しかし、明治35年に徳川慶喜の功績が認められ、天皇陛下に「あなたは戦わないという判断をして立派だった」と称えられ、宗家と同等である公爵家として、徳川慶喜家を創設することが許されました。私はその徳川慶喜家の5代目になります。
徳川宗家と徳川慶喜家の二つは公爵でしたが、徳川家には他にも御三家や御三卿という家系があり、これは江戸時代の流れを汲んでいます。それぞれ侯爵、伯爵や子爵といった形で残っています。それに加えて、あと4つの別家も存在しています。例えば、尾張、紀州、水戸という地方大名としての徳川家がありました。その他に御三卿があり、田安、一橋、清水になります。御三家と御三卿の違いですが、御三家は地方を治める役割を持ち、現代で言えば知事のような存在です。一方、御三卿は将軍家をサポートする役割を持ち、江戸に常駐していました。現代で言えば内閣のようなもので、将軍家に何かあった時にはすぐにサポートする体制が整っていました。
徳川慶喜はご存じの通り、水戸出身でしたが、水戸藩からは将軍になることはできなかったそうです。ですから一旦、一橋家に養子に行き、そこから幕府の中枢に入り、将軍になった経緯があります。一橋家は、慶喜が将軍になるためのステップの役割があったので、一橋家が注目されることは悪いことではありませんが、慶喜にとってはそれが全てではありません。その点を理解していただきたいと思います。
徳川慶喜家は、公爵授爵から始まった家なので、比較的新しい家であることも知っていただきたいです。
竹村:私も含めて皆さんも同じだと思うんですが、歴史の教科書で御三家や御三卿について学んだことがありますよね。特に、最後の将軍である15代将軍の徳川慶喜については、多くの日本人が知っていると思います。歴史の教科書で知っている話と、先ほど山岸さんがおっしゃった一橋家の徳川慶喜の話、そこは少し違う部分もあるんだなと感じました。
歴史の中心にいる徳川慶喜と山岸さんは直接的な繋がりがある方です。その立場から見える景色のお話は、とても興味深いです。教科書で学んだ歴史と、山岸さんが語ってくださる歴史との違いを感じながらお話を伺っていると、山岸さんがまさにその歴史の中に生きていることを実感します。徳川慶喜家は、明治天皇によって新たに起こされた家であり、公爵として徳川宗家と並んで続いていて、山岸さんはその第5代目の徳川慶喜家の当主ということですね。
山岸氏:そうですね。ご宗家は慶喜の養子なので血は繋がっていませんが、戸籍上ではお互いに玄孫という立場になります。
竹村:多くの方は知らないことですね。
山岸氏:また徳川慶喜家は皇族との繋がりも強く、有栖川宮威仁親王というのが有栖川の最後の方なんですけれども、その最後のお姫様が徳川慶喜家の嫡男 慶久に嫁ぎました。それで有栖川家が途絶えてしまいました。有栖川宮家の家督を誰が相続するのかという話になったとき、昭和天皇の弟の高松宣仁(のぶひと)親王殿下が祭祀を継承したんです。有栖川実枝子女王は有栖川宮家の最後のお姫様で、その娘である喜久子姫が、有栖川宮家の祭祀を継承された高松宮様に嫁いだというのは、そこに大きな物語がつながっているのです。
高松宮妃喜久子殿下は私の祖父の姉、大叔母様という関係で何度もお会いしていますが、『菊と葵のものがたり』という本を書かれていまして、皇族と徳川家の関わりがその時代にも生きていました。その空気感というのは、特別なものかも知れません。私も、親戚には徳川、松平ばかりですが、今まで歴史を意識して暮らしてきたことはなくて、叔父が亡くなってから「家をなんとかしなきゃいけない」と思ったときに初めて徳川家の様々なことと向き合って、「あ、うち本当に徳川家なのね」と思い、知らず知らずのうちに、徳川家の空気感をまとって、育ってきた事を知る事になりました。
竹村:それはお父様、お母様が、あえて意識させないように山岸さんのことを育てられた、ということがあるのでしょうか。
山岸氏:そうですね、私の1つ上の世代の方がやはり色濃くて、例えば、和子おばあちゃまが叔父の慶朝(旧公爵徳川慶喜家第4代当主)を育てる時に、お殿様になってはいけないように教育したみたいなことを言っていましたね。でも普通、そんな教育しないですよね。お殿様にならない教育ってどういうこと?みたいなことになりますよね。多分、和子おばあちゃまは、お殿様で育ったおじいちゃまに対して、すごく苦労したんだと思います。その後に第二次世界大戦がありましたし、そういったことで、殿様稼業では生きていけないよっていうことを教えたかったんだと思います。
叔父はとても働き者でした。ただ職業がカメラマンだったので、お金が儲かる仕事でもありませんでした。とにかく自分で働いて暮らすということを貫いていました。将軍の時代でもないですし、もうお上の立場ではないですし。税金で暮らす世界でもないので、自分で働いて生きるということを私の上の世代から始まった事でもありました。時代ですね。
ただ、その中でも文化的な香りは残っていて、例えば私が小学校に上がる時に、 普通だったらおばあちゃんがランドセル買ってくれたりしますが、うちのおばあちゃまは、布地をお祝いにくれたんです。あとでそれが『あ、これが文化だったのかも』と、思いました。母が、給食に使うテーブル掛けとか、給食袋とか、靴袋などもその布で全部作っていました。
竹村:自分の家では当たり前なんだけれども、山岸さんが結婚されて、殿様になるなと言われているような家から、一般的な家に嫁いだ時に、自分の家が普通じゃなかったなと感じることは他にありましたか?
山岸氏: そうですね、まず呼び方ですよね。私の母は、自分のお母さんを「おたあちゃま」と呼んでいたんですよ。これは「おたた様」からの言葉の流れだと思うんですけど、全然違和感なかったです。一般の人は「おばあちゃん」って呼んでいるのは知っていましたけど、最初は自分の家がちょっと特殊だってことに気づかなかったんです。
「家を閉じる」決断とその真意
竹村:そういう意味では、様々な家の事情や、5代目を継いだ時に改めていろんな資料を通じて「私は徳川家だったんだ」ということを新たに思い直したのですね。その中でお伺いしたいのですが、なぜ、ある種リスペクトすべき繋がりを再認識しつつも、家じまいという決断に至ったのでしょうか、またその経緯はどういったものだったのでしょうか?
山岸氏:実は終わらせるためではないんです。逆に、続けるためなんです。公益性を持たせようと思っているんですね。家を守るというのは、もちろん親族が守るということなんでしょうけれども、私は家の歴史を日本国で守っていただければと願っております。だから、私が閉じるというのは、お終いにするということではなくて、続けるために親族で守るのをやめるということなんです。
竹村:それはとても重要なポイントで、「お終い」というと、普通は途絶えることだと思ってしまいますが、実はそうではないということですね。続けるために、手段として家じまいをするだけであって、目的は歴史を繋げていくことであって、そのために1番いい選択を考えられたということでしょうか。
山岸氏:私は「徳川でございます」のような歴史を武器にして、お高く止まっているように感じられるような態度をするのが自分らしくなく、一般人として育ったというのもありますし、崇め奉られるのも違和感もあります。でも家に歴史があるのも知っています。私はこれを「歴史のシェアリング」と呼んでいるんですが、みんなで広めていただくことによって、最終的に家が守られると思っているんです。
竹村:山岸さんは、様々な講演もされていたり、インタビューがウェブサイトに掲載されると、ある種センセーショナルに捉えられてしまうことが多いと思いますが、実態は何かというところを本当に知っていただきたいというお気持ちだと思うんです。私どもの協会も、歴史を次世代に繋げていくためにどうするべきかということを皆さんに知っていただくのが一番の目的です。
家を終う、その価値とは何なのか、守るべきものは何なのか、何を伝えていけばいいのかということが、すごく大きな問題だと思います。
山岸氏:そうですよね。実際に、叔父が亡くなって、私が課せられたことは、大きく3つあります。
1つ目は、徳川慶喜家に伝わる資料が約6000点近くあるのですが、それを個人の家ではなく公の施設で守っていただけないか、またそれを研究に活用していただけないかと思っています。
2つ目は、上野にある約300坪近い墓地の処遇です。これは個人ではもう維持できないレベルなので、どうするべきか考えなければなりません。お墓には徳川慶喜、実枝子様含めて約20人が埋葬されています。現在、私1人で管理しており、上野東照宮様が掃除などをして下さっておりますが、お墓の責任を持つ事は非常に大変なのです。
3つ目は、個人的な財産の処理です。個人的な財産についてはプライベートなことなので詳細は控えますが、大した額ではありません。
竹村:税金使ってるわけじゃないですからね。当主が守ってるんですよね。
山岸氏:幼い頃はお墓参りに行くと、うちのお墓大きくていいでしょうみたいな自慢の気持ちがなかったといえば嘘になりますが、大人になってみると、維持する大変さが身にしみます。
竹村:ゆかりのあるご家族、親族が守っていくこと自体が難しいですよね。なのでここをどう維持するかが、1つ大事なことなわけですよね。
山岸氏:私1人では、年間に何十万、何百万もの維持費を負担するのも責任を負うのも大変です。自分の家の維持費に何十万かかるのは仕方ないですが、お墓に何十万もかかるのは少し建設的ではないと感じます。そのため、いずれはお金がなくなってしまいます。だからこそ、守るためには適切な公の機関にお渡しするのが適切と考えています。
竹村:あと、資料もとても重要だと思っています。直系の家族にとっては、高祖父が書いたものだと思うかもしれませんが、慶喜公の場合、それは貴重な歴史資料ですよね。それを今までは個人で管理してきましたが、それをどうするかを考えなければならない時期に来ていますよね。
山岸氏:叔父の納骨をした時の挨拶文を、私が毛筆で書きました。これは関係者だけに出した手紙なのですが、お香典をくださった方々に対して、「この度は慶朝の葬儀の折にはご厚情賜りまして、誠にありがとうございます」といった内容で、無事に何月何日に納骨しましたという報告をさせていただきました。その毛筆で書いた手紙が、資料になると言われたんです。
自分が書いたものが資料になると聞いて、「え、これは私が書いた会葬御礼の挨拶の手紙だよ」と思ったんです。でも、それが日本の歴史の資料になると言われると、学芸員が考えることと親族が考えることに温度差があることを感じます。親族にはその自覚がなかったりもします。
よく例えでお話しするのが、3歳の時にピカソが書いた絵の話です。親族にとっては子供のいたずら書きに過ぎませんが、学芸員にとってはピカソが3歳の時に書いた絵は貴重で、非常に高価な値がつくこともあり得ます。親族と学芸員の捉え方のギャップに戸惑うことがあります。実際、学芸員さんには「美喜さん、これは貴重だから捨てないでください」と言われることもありました。
竹村:伝統として続けていくことについて、2つのことを思いました。
1つは、伝統を続けることの大変さです。これはいろいろなものを守っていくことに対して、自分の時間も含めて多くの努力が必要です。しかし、それこそが伝統そのものであり、続いていくことの意義でもあります。
もう1つは、自分が伝統の中にいるという自覚です。自分自身は今を生きているだけなのですが、それが客観的に見た時に価値がある、つまり今も続いている伝統の一部であるということです。過去と今を生きるという2つの側面が重なり合い、難しさもありますが、それが次に繋がっていくことなんだと強く感じます。
山岸氏:私は意識していないのですが、例えば、うちに取材に来た記者さんや、会津に行った時の学芸員さんなどが、「美喜さんには自覚がないかもしれないけれど、特別な空気がある」と言われた事があります。記者さんも「山岸さんの向こうに徳川慶喜が見える」と言っていました。正直、「本当?」と思いましたが。
確かに、高祖父の癖や顔の作り、そしてDNAが影響している所もあるでしょうか。よく「徳川慶喜に似ている」と言われます。70歳の高祖父に似ていると言われるのは、微妙な気持ちにもなります。もっと美人のご先祖様に似てると言われた方が嬉しいです。X(Twitter)でも、徳川家康と顔が似ていると話題になったことがあります。
伝統や文化というのは形にないものなので、それを伝えるのは非常に難しいです。しかし、私が生きているうちにできることがあるならば、自分の言葉で説明し、親族の感覚として「ここがこうだ」ということを伝えられたらと思います。なんと言いましょうか。空気感とでも言いましょうか、そんな事が伝えられたら嬉しいです。時代錯誤なところもあるかもしれませんし、無知な部分も多いですが、そこはご了承いただきたく思います。
竹村:志野流の次世代継承者の方にお話を伺った時に、生まれた時から周りにそのお香があって、それが自然と入ってくる。美術館や博物館で見るものではない。今の話を伺いながら、じゃあ山岸さんの次にどう伝えていくんだろうなっていうのは、すごく難しい問題ですよね。資料は行って見れば簡単かもしれないけれども、やっぱりそこの雰囲気を含めたものをつなぐことの大切さっていうのがありますよね。
山岸氏:よく知っている学芸員の人に「山岸さんはもう料理のレシピを教えるようなもんなんですよ」と言われたんですね。その時にちょっとカチンと来て、「いや、うちの歴史はそんな軽々しいもんじゃない」と思ったんです。言いたいことはすごくよくわかるのですが、やはり自分自身の言葉で語るしかない、伝えるしかないと感じました。受け入れやすいように伝えるってことがすごく重要で、「うちは徳川なのよ」と言って、「うちは一般人とは違うから」っていうような偉そうな態度で伝えないようにと気をつけています。
また、私も逆に知らない文化があることを興味を持って向き合う事もも大切に感じており、お互いの立場が違えど、相互理解の上でお伝えすると、想像力も働き広がりやすいんじゃないかなと思っています。
竹村:こういう形で、赤裸々に話をしてくださって、すごくありがたいなと思っています。あっちの世界にあるんじゃなくて、実はそれは生きているもので、いろんな悩みもありつつ、でも伝統的なものがあり、格式があって、それがどうやって繋がっているのかということを考えるのは、とても重要だと思います。
日本が誇るべき歴史と文化―次世代へつなげるために
竹村:その伝統をどう繋げていくかということについて、悩んでいることを知ることは、私たちにとって非常に意味があることです。学んで、そのものにはなれないかもしれませんが、知ることによって他の家がどうなっているのか、他の大名家も含めて、色々と伝えるべきものがあることに気づくかもしれません。
我々自身がそうしたことに目を向けることができるし、徳川慶喜家を繋ぐということだけでなく、それをきっかけに日本の文化や様々なものを次世代に繋いでいくということについて考えることが重要だと思います。そういう風に考え始めることが、私たちにとって非常に重要なことなんじゃないかと、改めて感じました。
山岸氏:日本は誇るべき歴史と文化がある国だと思います。私は英国に8年ほど住んでいましたが、日本人であることに大変誇りを持っています。英語を話せる友人や国際同時通訳をしている友人もいますし、バイリンガルの人も増えていますが、やっぱり私たちは日本人であることは変えられませんし、日本は素晴らしい国だと思っています。
歴史の話も今では海外の人も様々な媒体から日本を知る事で興味を持ってくれています。そうなると、日本の歴史をある意味で輸出することが日本文化を守る事に繋がるように思います。また伝統文化を知ることで、生活が豊かになると思います。例えば、掛け軸の歴史を知ることによって、日本には書道という文化があり、それが一つの宝だと思います。それを一人ひとり知ることで、自分が日本人であることを認識できます。日本が嫌いでもいいですが、こういった知識は決して邪魔にはならないので、歴史を知ることで次に行くこと、広がることができます。
私、クラシック音楽が好きなんですけれども、歴史は過去に起こったことですよね。クラシック音楽も過去に作曲されたものを現代に再生するわけです。クラシック音楽はヨーロッパのものに偏りがちですが、じゃあ一体日本はその時代に何が起こっていたのかを知ることによって、日本人が演奏する価値が生まれると思います。ヨーロッパの歴史を学ぶことも大事ですが、同時に日本史を学ぶこともなかなか面白いんじゃないかなと思っています。
竹村:例えば、将軍家で使用された焼き物で言うと、鍋島焼きがあります。鍋島焼きは、大名や貴族のための贈答品として使われていたものです。山岸さんはご存知かもしれませんが、私がその時代に生きていたら、そんなものがあること自体を知らなかったでしょう。
しかし、現代ではそれを見ることができるし、いろんな意味で文化を知るチャンスが増えています。自分が実践することへのハードルも下がってきていると思います。あとは、本当にそこに対して飛び込むかどうかというところですね。山岸さんがおっしゃったように、日本人として生まれたからには、まずは知ることから始めようというのは、その通りだと思います。
山岸氏:これまでの歴史って、何年に何が起こったかという、単なる知識詰め込み型という風に昔は感じていて、実は好きではなかったんですよ。でも、日本人として、物語が歴史になるというか、ストーリーがヒストリーになる。勉強として考えると難しいですが、関連性を持たせると興味が湧くんです。だから、私は歴史に命を吹き込むというか、魂を吹き込むのが私の役割ではないかなと思っています。歴史に文化を取り込むことができれば、ひとつひとつの価値が深まると思います。
竹村:そういう意味だと、本当に、慶喜公がさまざまな決断をしたわけですよね。大政奉還であったり、戦争を避けることを選んだりと。あえてそれを選んだのは、歴史や教科書、そしていろんな人々の意見があるわけですが、勉強の世界でいうといろいろと書かれることも多いですし、いろんな意見が交わされます。しかし、その意思を受け継いでいる人たちからすると、その思いだったり、慶喜の思いというのは、きっと山岸さんもさまざまな想像を巡らせるのではないでしょうか。
山岸氏:そうですね。やっぱり生きていたんですね。そう命ある人間なので。様々な資料が残されている中、写真が沢山あり、その中で、孫の喜久子姫(のちの高松宮妃)を抱っこしている有名な写真があるんですけれども、やはり、徳川慶喜も一人の人間だったということです。こうやってネットで情報が広がるというのは、もちろんプライバシーが守られながら人間性が伝わる情報が広がることは、とても良いことだと思っています。
おじいちゃまとおばあちゃまの結婚式の写真や私の母が生まれた頃の写真など、私がこの写真を見て初めて、「あ、私の母は歴史の中にいたんだ」と実感しました。それまで、私の母は普通の母でしたし、身近な存在でしたけれども、この写真を見て母は、徳川家に生まれた人だったんだと改めて受け止めました。頭ではわかっていた事なんですけど。
この写真は、徳川慶喜が最後まで暮らして亡くなった家であり、私の母が生まれた家でもあります。最後はボロボロだったようで、隙間風だらけだったそうです。こういう話は住んでいる人にしか伝わらないことですが、ここに50人ぐらい使用人がいたという話も聞いたことがあります。戦前の徳川家というのは、ある意味、少しカンパニーのようなところがあったのだと思います。
あと家範(かはん)というのがあって、これは徳川慶喜が決めた、家のしきたり、ファミリールールです。1番最初に、皇族には敬意を表するようにと書いてあるんですけれども。徳川慶喜の直筆で今も残されてますね。
竹村:本当にこういうものを1つ1つ保存していくということですよね。
山岸氏:そうですね、これらは全て祖父母の家の物置にあったんですよ。小さい頃、おばあちゃまが「捨てるわけにもいかないし」と言っていました。当時、何が入っているのか私は知らなかったんですが、「確かにこれは捨てるわけにはいかない」と実感しました。そうやって、おばあちゃまもちゃんと守ってきてくれました。今はちょっと博物館の収蔵庫に入っていて、今後、どこに寄贈できるかはわかりませんけれども、できればきちんとした公の博物館に寄贈できたらと願っています。
竹村:本当に大変ですよね。色々お察しします。
山岸氏:博物館へ資料の寄贈に繋げるべく、博物館にご連絡申し上げても50歳の女性で、山岸って人が、徳川慶喜の資料のことなんですけど、と言っても、まだ誰も信じてもらえなくて、まずはそこの説明から入りました。
竹村:なるほど、本当にこういうこと1つ1つやって行く必要がある。それは何のためにやってるかって、歴史を終わらせるんじゃなくて、ずっと繋げていくために、その一心でやっているってことですね。
山岸氏:そうですね、公には、歴史を繋げることなんですけれども、個人的には供養です。私は、これが全部済んだら、ご先祖様の墓前に報告したいと思います。多分、慶喜公もよくやったって、言ってくださるんじゃないかと期待しつつ。
徳川家が背負った宿命ですね、日本の歴史として皆さんに認識していただくことで、 自分たちの生活にも歴史がある事を認識していただいたりとか。SNSでも、色々発信はしてるんですけど、山岸さんと知り合ってから、「歴史に興味を持つようになって、楽しいです」みたいなこと言われるんだけど。そういう風に、興味を持って楽しんでいただくことっていうのも、やって良かったなと思ってます。
竹村:そういう意味では、初代慶喜公のことと、第5代っていうことで、思うことありますか。
山岸氏:ご先祖様である慶喜公は大切なものを、残してくださってたんだと思います。品物じゃなく、その心。
大政奉還した時は、30歳。私が30歳の時なんて遊んでましたよ。昔は若くても立派だったと思います。5代経って、じゃあ、今、30歳の時になんで私が遊んでいられたかって言ったら、やはりご先祖様がそうやって時代を作ってくださったおかげでもあるんだろうなと思って、時代を経て日々感謝感謝の毎日でございます。これが家康公ほど離れていると、ここまで実感しなかったかも知れません。
竹村:大変なのに、そのようにポジティブに捉えられていけるのは、何かを繋げていくというか、そのご先祖様も含めての、思いがあるんだなって思います。
山岸氏 :心の底から大切に思っています。なので信念を貫いて出来るのだと思っています。多分10年ぐらいたった時に、あの時大変だったなと思うかも知れません。母から言われた事があるのが、「雨露をしのげる屋根があるところに住めて、今日食べるご飯があり、健康であること。これがもう最大の贅沢なのよ」と。過分な家に住んで、友人たちと時々美味しいご飯を食べている私が言うのも非常に説得力がないかもしれませんが、心の底ではいつでもまず健康であることが本当に大切だと思っています。そういった本当に基本的なことって、当たり前すぎて見過ごされがちですが、やはりそういったところから一つ一つ感謝することが大事だと感じています。
竹村:最後に、皆さんにメッセージがあればお願いいたします。
山岸氏:私は専業主婦でしたが、何の因果か 徳川家を背負うことになりましたけれども、私だって同じ人間ですし、人それぞれに都合があって、皆さんの人生がある中で、出会えた時はお互いに寄り添って、相手の価値観を尊重した関係でいられたらと願っています。徳川家だから偉いなんてことはもちろんないです。こういった歴史に一つ一つ興味を持っていくと、ちょっと人生が深く豊かになるような気がします。
竹村:ありがとうございます。いろんな実態も含めて、色々な話を伺えて良かったです。で、やっぱり日本文化いいねっていうことも伝わったのではないかと思います。センセーショナルな見出しではなく、山岸さんがなぜこういうことを外に発信してるんだとか、どういう思いでされてるんだっていうところですね。改めて私も皆さんに知っていただきたいなってすごく思っていたんで、やっぱりこういう機会でフラットに色々話もしていただいたので、本当にありがとうございました。
山岸氏:こちらこそありがとうございました。
竹村:本日は、徳川慶喜家、第5代当主の山岸美喜さんにお越しいただいて、お話をいただきました。本当にありがとうございました。
対談プロフィール
山岸 美喜
徳川慶喜家第五代当主
バーナード・プランニング代表、メニコン芸術文化記念財団、日本文化国際交流協会 理事、将軍珈琲宣伝大使、2020年 松平容保孫である祖母、徳川和子(2003年没)の手記「みみずのたわごと」を共著、出版
竹村文禅
(一社)日本伝統文化協会会長
現代、そして未来において、伝統文化が持つ価値をどのように見出し、次代に継承していくべきか。生活者の視点、企業人としての視点で、伝統文化の価値のリブランディングを目指し本協会を設立。