茶会で実際に入れる!東京国立博物館の応挙館
上野の東京国立博物館の裏手には庭があり、応挙館と呼ばれる建物があります。JCbaseでは、来月応挙館でのお茶会の前に、応挙館について詳しく知る会が開催されました。講師は、一般社団法人日本伝統文化協会会長の竹村文禅氏です。
応挙館は、 尾張国(現在の愛知県大治町)の天台宗寺院、明眼院(みょうげんいん)の書院として寛保2年(1742)に建てられ、後に東京品川の益田孝(鈍翁・ 1848~1938)邸内に移築、昭和8年(1933)当館に寄贈され、現在の位置に移されました。室内に描かれている墨画は、天明4年(1784)、円山応挙(まるやまおうきょ、1733~1795)が明眼院に眼病で滞留していた際に揮亳したものであると伝えられています。松竹梅を描いた床張付がのこされています。
墨画は保存上の理由から収蔵庫で保管されていますが、2007年、最新のデジタル画像処理技術と印刷技術を駆使した複製の障壁画が設置され、応挙揮毫当時の絵画空間が応挙館に再現されました。木造平屋建て、入母屋造、瓦葺き、間口15m、奥行き9m、2室、廻り廊下を巡らしています。 応挙の絵画が飾られているため、応挙館と呼ばれています。 応挙館の障壁画については、作品保護のため複製画に差し替えられています。(2007年8月/複製制作などの詳細)。 (※東京国立博物館より転載)
応挙館の名前の由来となった円山応挙とは?
円山応挙とは、江戸時代中期~後期の絵師です。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特徴的です。 金毘羅宮(香川県)の襖絵の水飲みの虎図、足のない幽霊の先駆けとも言われる谷中全生庵(東京都)の幽霊図なども有名で、代表作である国宝《雪松図屏風》は三井記念美術館に所蔵されており、今月末まで観覧出来ます。
益田鈍翁氏により、応挙館で繰り広げられた「 佐竹本三十六歌仙絵巻 」事件とは?!
応挙館は前述したとおり移築を繰り返すなか、1848年~1938年は品川(御殿山)の益田孝氏の邸宅敷地内に所在しました。益田孝氏は、 明治維新後世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した方です。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称されたほど。益田鈍翁氏は、弘法大師筆『崔子玉座右銘』を披露するために大師の縁日にあたる3月21日に「大師会」と称されるお茶会を開いたりもしていました。
明治維新以降、一部の武家が財閥に転身出来たことを除いては、多くの武家や大名家が没落していきました。 明治末期から昭和初期にかけて、家宝の売却などで凌がなければならない事態に追い込まれていきます。 鎌倉時代に描かれた佐竹本三十六歌仙絵巻(一部を除き、重要文化財に現在指定)の所有者であった 佐竹侯爵家も手放すことになります。古美術商は、茶人・美術品コレクターとして高名だった実業家の益田孝(号:鈍翁)のところへ相談に行きますが、大コレクターとして知られた益田もさすがにこの絵巻を一人で買い取ることはできませんでした。そして、彼の決断で三十六歌仙絵巻を歌仙一人ごと 37枚(下巻冒頭の住吉明神図を含む)に分割し、くじ引きで希望者に譲渡することとしたのです。その抽選会が行われたのが、応挙館なのです。
2019年10月12日 – 11月24日には京都国立博物館にて特別展「流転100年 佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」が開催され、佐竹本三十六歌仙絵巻の断簡37点のうち、躬恒、猿丸、斎宮、清正、伊勢、中務を除く31点が展示され、多くのファンが全国から駆け付けました。
その展覧会の図録も拝見させて頂けました。佐竹侯爵家が絵巻物を納めていた蒔絵の箱やクジ引きに使われた道具(後に花器に変えられた)なども、図録を参照しながら裏話をお聞きすることが出来非常に充実した会となりました。