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旅がらすの日曜日 ~社寺修復塗師の街並み散策日誌~ 愛知県 犬山城

文化財・社寺修復を手掛ける塗師の旅がらすによるコラム長期連載です。シリーズタイトルは「旅がらすの日曜日 ~社寺修復塗師の街並み散策日誌~」。様々な季節、日本各地の街並みを探訪、古の遺構にも目を向け、社寺修復塗師ならではの視点で綴っていきます。肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。

たかが釘穴。されど釘穴。
金山越の伝承を探る―国宝犬山城―

かねてより、愛知に来たならばまず行きたかった犬山城へ。尾張の北限、美濃に対す木曽川沿いの丘上に築かれた平山城(ひらやまじろ)。三層四階地下二階の複合式望楼型天守は現存十二天守のひとつで国宝に指定されている。別名白帝城は、岸壁に悠然と佇む姿から、中国長江の丘上にある白帝城を詠んだ李白の詩になぞらえて江戸中期の儒学者荻生徂徠がそう呼んだことに由来する。室町時代末期の天文六年(1537年)織田信長の叔父、織田信康によりこの地に築かれたと一般的に言われている。その後城主は目眩く替わり、元和三年(1617年)尾張徳川の重臣成瀬正成が城主となって以降は、成瀬家が代々受け継ぎ、平成16年に財団法人に移管されるまで国内で唯一個人所有の城としても有名だった。
犬山城築城の年代や方法に関しては諸説あり、未だ解明されていない謎が存在する。現存最古の天守がこの犬山城とも、福井の丸岡城だとも言われる所以である。犬山城にはかつて、秀吉の家臣石川貞清が城主だった慶長五年(1600年)頃に、木曽川を20km程上った貞清の居城、美濃金山城を解体し筏で運んで犬山城に移築したという、いわゆる金山越(かねやまごし)という伝承が永らくあった。しかし昭和36年~40年にかけての解体修理の際、部材に移築の痕跡が全く見当たらないことから伝承は否定され、以来、数々の文献に記載があるにも関わらず否定されたままである。
概ね明らかなのは、望楼型に加え、東北の付櫓が戦国末期から安土桃山時代の天守の特徴を兼ね備えているという点。そして、用材の加工方法、建築手法からみて、下層(1、2階)は古く(1500年代)、上層(3、4階)の方が新しい(1600年代)、さらに上層は、後に改造が施されたであろうということだろうか。それ以上調べる程に結論は導かれず、文献によりけりで決定打がない為、ひとまず諸説を比較検討する。
まず、1537年に織田信康が現在の城郭の1㎞程南、木之下城より移転した際に2階までを新築したという説と1601年頃の新築であるという説があるが、前述の通り上層はともかく、下層に於いては1601年新築とは考えにくい。さらに、最近の文献からは抜け落ちてしまっているのが、木之下城から三光寺山(現城郭の三の丸内にある隣の丘陵)そして現在の白山山へと二段階の移転があったという事実。この二度目の移転は慶長期、まさに金山越の行われたとされる頃である。移転と同時に金山越があったとしてもおかしくない。

また、最初の説のように、現在の位置に1537年(天文六年)に新築されたとすると、ある一つの矛盾が拭えない。それは、天守台の石塁である。犬山城のそれは、斜度65~70度。1579(天正七年)の安土城で50度、1576(天正四年)丸岡城で60度であるのを思うといかに進んだ技術だったかという話になる。かつ、近場の木曽川の小粒の石を使ったと思われるため、さらに高度な技術を要する。つまり天文六年に織田信康程度の武将がこの石塁を築くのは不可能に近いと言える。
以上のことを踏まえて推測すると、慶長期に現在の城郭へ移転した際に土台の石塁を築き、転用材を使い下層を築いた上に上層部を新築したと考えられないだろうか。実際二度の移転があったとすれば、三光寺山城から隣の白山山へ天守に当たる建物を移築をしたと考えるとすんなり収まる気がするが、そういった記載はどこを探しても見当たらないばかりか、三光寺山城の存在自体なかったかのような扱いなのだ。
そこでやはり金山越が捨て切れない。金山城は天正五年(1577年)築城、二層二階でかつ、犬山城と規模も一致する為、金山越肯定説を採った方があらゆる面でしっくりくる上に、面白味がある。様々な文献に記録があるにも関わらず否定されていることについて、天守以外の門や櫓で使われたのでないかとか、運ぶには運んだが、天候等の事情でやむなく使用できない状況に陥ったのではないかなど、色々な憶測はあるけれど、それだけのことをやるならまず天守かなという気もするし、下層部分の建築仕様が江戸のものより古いという事実は変えられないのだ。
国宝に指定された島根の松江城に於いて、たった一つの釘穴が築城年を確定する証拠となり国宝指定への道が開けたという事実があるように、古建築において釘穴というのは時代判別をするのに非常に大きな役割をすることがある。犬山城に於いてもこの移築の痕跡に繋がる釘穴、ホゾ等については、今一度精査する必要があるのではないだろうか。

後ろ堅固の犬山城。
木曽川沿いの断崖絶壁という地形を巧みに利用し後ろの守りを固めたことからそう呼ばれた犬山城だったが、かつて織田信長はこの城を攻めた際、後ろ堅固を逆手に取り、その対岸の伊木山に対の城と呼ばれる仮城を置き脅しをかけた。また、後の小牧・長久手の戦いでは、かつて城主でもあった池田恒興はその強みを活かし、断崖から奇襲をかけ落城させている。後ろ堅固が仇となった形である。
現存の城郭の多くは戦いの無くなった江戸時代のものであるが、この犬山城天守は余多の戦いをかいくぐり幾度か落城しつつも生き残った稀有な存在なのである。

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