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旅がらすの日曜日 ~社寺修復塗師の街並み散策日誌~ 愛知県 竜美ヶ丘の猿山

文化財・社寺修復を手掛ける塗師の旅がらすによるコラム長期連載です。シリーズタイトルは「旅がらすの日曜日 ~社寺修復塗師の街並み散策日誌~」。様々な季節、日本各地の街並みを探訪、古の遺構にも目を向け、社寺修復塗師ならではの視点で綴っていきます。肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。

竜美ヶ丘の猿山 ―野生動物との共存―

先日、岡崎市竜美台(たつみだい)周辺の住宅地でサルが出没したとニュースになった。我が社のベース、日光辺りだとサルはそこら中の畑や屋根の上で群れて遊んでいるので、一匹くらいで騒がれることもないが、こちらでは「民家の庭の柿の実を食べた模様です」と真顔でやっているのである意味平和だ。日光のサルの様にすれていない様子で、出てきて悪かったかな…と、控え目な表情に可愛さすら覚えた。

竜美台は今の仕事現場の六所神社からもそう遠くない気がしたので地図を見てみると、六所神社のある明大寺町から南東の竜美ヶ丘(たつみがおか)と呼ばれる住宅地にかけ竜美北、竜美中、竜美台などといった住所が続くが、さらに南へ行くと、不思議なことに明大寺町という地名が飛び地の如く再び現れる。竜美ヶ丘は明らかに宅地開発で出来た新しい地名の様なので、おそらくこの辺り一帯は広い範囲で山でありそれを囲む様に、もしくは全てを含めて明大寺町であった所に竜美~という新地名を差し込んだため、飛び地化が起きたものと簡単に想像は付く。
実際古地図を見てみると、昭和40年頃までの明大寺町は多くの森林を背景に街道沿いに神社や寺院が建ち並ぶほかは学校がある程度である。40年後半に道が整備され、50年代になると住宅が増えていく。”竜美ヶ丘”という地名表記もこの頃見られる様になる。
岡崎城といえば、名鉄線の北側を流れる菅生川(乙川)よりさらに北の位置で城下町を形成してきた現在の岡崎城を思い浮かべるが、元々の岡崎城は明大寺町にあった。室町時代に西郷弾正左衛門頼嗣により、北からの守りの為菅生川南のこの地に築かれた後、1452年、守りの強化の為現在の竜頭山(りゅうとうざん)へと移された。
そもそも岡崎という地名が出現するのは15世紀後半、明大寺の丘(岡)の先(崎)の平地を指して言ったものを、城の移転をきっかけに菅生川北の竜頭山近辺も含め岡崎と呼んだとされる説が有力である。さらに明大寺という地名は、この地に残る浄瑠璃姫の伝説に依るもので、義経が姫の死を悼んで建立したとされる妙大寺に由来する。かつてこの寺にあった十一面観音が六所神社北東の安心院に安置されている。
この明大寺界隈は、丘上に学校や研究施設、丘全体に昭和の宅地開発による住宅地が広がり、丘下には移転集中された行政機関という住み分けになっており、歴史のある神社仏閣の周辺の森のみ残され点在している。ふるさとの森に指定されている竜海院の森、六所の森、万燈山の森(吉祥院)や、さらに南へ行くと竜美ヶ丘公園が野鳥の森となっている。
どれも森というにはあまりにも小さく、野生のニホンザルが長い間住み続けていたとはとても考えられない程のものであるが、突如住宅地に現れたサルはおそらくこの森で暮らしていたと思われる。侵略者は明らかに人間の方で、野生動物は住宅の合間の小さな森でひっそりと暮らしているのである。野生動物と人間の共存は得てして難しい問題であるが、成熟化しつつある現代日本においての都市開発には、それ相応の秩序と節度を守ったやみくもではない開発プランが必要とされるだろう。
僅かながら自然林も残るこの界隈は、起伏に富んでおり、明大寺礫層と呼ばれる地層の見られる場所もある他、浄瑠璃姫伝説以外にも数々の伝説が残されているため、歩いてみれば色々な発見が出来るだろう。お猿さんのニュースのおかげでまたひとつ思いもよらない散策の楽しみが増えた。

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