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Discovery Tradition in Japan #04 川野 誠一(かわの せいいち)氏

Discovery Tradition in Japan #04 川野 誠一(かわの せいいち)氏

「Discovery Tradition in Japan」は、様々な形で伝統文化と関わりのある方にお話を伺うインタビューシリーズです。活動やその裏にある想いから伝統文化の輪郭に迫っていきます。ジャンルにとらわれずご紹介していきますのでどうぞお楽しみに。

一条恵観山荘の歴史:370年の時を超えて

竹村(JCBase:今回は”一条恵観山荘でひも解く日本文化の奥行き”というテーマで、一条恵観山荘の案内人を務められている川野さんにお話を伺います。川野さんは劇団も主宰されている俳優でもあり、大蔵流狂言方としてもご活躍されておられます。

川野誠一氏:一条恵観山荘の案内人の川野誠一と申します。この10年ほど、山荘の案内人を務めさせて頂いております。私は「劇団大樹」という劇団を主宰しておりまして、普段は俳優として、また大蔵流狂言方の善竹十郎師の門弟として、狂言師としても活動をしております。宜しくお願い致します。

竹村:早速ですけれども、はじめに一条恵観山荘について教えてください。行かれた方も沢山いらっしゃるかもしれませんけれども、重要文化財ですよね。

竹村:そんな素晴らしい370年前の建物、しかも京都の公家文化が色濃く残っているものが、鎌倉で、しかも数年前から見られるようになってきたというのは、ある意味、色んな物語があって、ここに来ているということですけれども、実際、どんな建物なんでしょうか。

川野:一条恵観山荘は、昭和39年に国の重要文化財に認定されました一条家別邸の「離れの茶屋」になります。侘びた風情を感じる茅葺屋根の民家風建築なのですが、その内部には、雅な趣向や恵観公の拘りが溢れています。外からは分からないのですが、三重構造の屋根、雑木林の如く様々な木の柱、二重棚の仕組み、杉戸絵、部屋毎に異なる天井の化粧など、知れば知るほど、その緻密な設計に驚くばかりです。恵観公という方は、木材や建築にも大変精通されていて、山荘建立の際には、自らが指図して材木の選定や配置が行われたようです。自然に溶け込み、自然を活かし、まるで林の中にいるかのような感覚になる建物なんです。鎌倉と言えば、武家文化のど真ん中ですが、その場所にこれだけの格式がある「公家の建物」が移築されたということにも驚きます。また、これだけ格の高い建物に対して、現代に生きる私達がどこか懐かしいような心地良さを感じてしまうことにも驚きます。それが何なのかと考えた時に、恵観公が拘った自然との関わり「野趣」という言葉で表現されますが、自然との共存という精神性があるからじゃないかなと思っています。

川野:一条恵観山荘は、後陽成天皇の第九皇子であった一条恵観が、江戸初期の1646年頃、今からおよそ370年前に隠居所として、京都の西賀茂に建立した別荘です。当時は3万坪の敷地があり、舟遊びが出来る池や蹴鞠場、馬場や的場、様々な花壇や茶園もあったようです。同時期の有名な建物としては、桂離宮や修学院離宮があります。その山荘が昭和34年(1959年)に鎌倉に移築されました。鎌倉に移築されて60年以上になりますが、一般公開が始まったのは2017年からとなります。

竹村:民家風で侘びた風情の中に、ある種、自然との融合であったり、いわゆる公家文化が色濃く反映されていて、その中で自然を感じつつも文化的なものも感じられるという、二面性があるということを感じました。

川野:一見すると民家風の建物なんですが、見せびらかすこともなく、細やかに恵観公の趣向が秘められているんです。私も最初に行った時は全く分からなかったのですが、説明を受けますと、柱の一本から、建具の配置まで、全てに拘っていることが分かりました。ちょっと口で説明するのは難しい建物ですね。そういう建物を意図的にプロデュースして造られているんだと思います。知れば知るほど、一条恵観さんってどういう方だったのだろうと凄く気になります。

文化と芸能の支援者として

竹村:一条恵観さんについても教えて頂いても良いですか?

川野:現在は「一条恵観山荘」と呼ばれていますが、京都にあった頃は西加茂山荘とか西加茂御殿と呼ばれていたそうです。一条恵観という方は天皇のご子息で、天皇家から摂関家の「一条家」に養子に行った、つまり皇籍を離れ下った方です。和歌、茶の湯、生花から能狂言まで、幅広い文化芸能に精通した趣味人でもあったようです。歴史を紐解いてみると、天皇家の皇子が摂関家の養子になったのは、この一条恵観公と兄である近衛信尋公、このお2人が歴史上最初のようです。恵観公は一条家の第14代の当主として養子に行かれたわけですが、お兄さんに修学院離宮を作った後水尾天皇という方がいらっしゃいます。恵観公は、その後水尾天皇の次の代の明正天皇、そして、その次の代の後光明天皇。この2人の天皇の摂政と関白を務められた方です。時代的な背景を見ると、この時代に「禁中並びに公家諸法度」という、皇族の権限を制限する法律のようなものが発令され、皇族の皆様は大変な状況だった筈です。そんな中で、恵観公は後水尾天皇から国の舵取りを任されていたわけです。もの凄く信頼されていたのだと思います。そんな政治的手腕を持っていた恵観公ですが、文化や芸能にお金をつぎ込み過ぎて、晩年はお金に困ってしまったというお茶目なエピソードが残っていたり、また大衆で流行っていた芸能を天皇にお勧めするなど芸能プロデューサー的な側面もあったりします。私は大蔵流の狂言師としても活動しているとお伝えしましたが、当時の大蔵流狂言のお家元に大藏彌右衛門虎明という方がいらっしゃいます。恵観公と後水尾天皇がやり取りしているお手紙の中に、御所で催される狂言の役付について、その大藏彌右衛門虎明と恵観公とのやり取りが記されているお手紙が残っているんです。面白いのはそのお手紙の中では、狂言の役付を相談したと始まりながら、終いには「狂言よりは傀儡(くぐつ)の方が面白いと思います」と言うようなことが書かれているんです。傀儡とは人形廻しとも呼ばれていた芸能です。恵観公は芸能にかなり明るかったようです。

竹村:良いものを残していくために、拘りを持っているからこそ出来るわけで、大蔵流狂言師のお話も文楽のお話も今から見ると伝統芸能の最古にものになっていますけど、面白いですよね。

川野:実は「文楽」については面白いエピソードがあります。浄瑠璃作者で有名な近松門左衛門は若い頃、恵観公にお仕えしていたお侍さんだったそうなんです。山荘の土間から上がって最初の部屋に、人形廻しの杉戸絵があります。この「人形廻し」というのは文楽の前身として伝わっている寛永の芸能です。つまり近松門左衛門はこの絵を見ていた可能性があるわけなんです。ロマンを感じませんか。人形廻しという芸能と浄瑠璃語りがやがてひとつになり人形浄瑠璃、文楽、という芸能に発展していくわけです。そこに貢献したのが近松門左衛門です。私は近松門左衛門は恵観公のもとで文化芸能について相当な見識を得たのではないかと、そこからの飛躍として浄瑠璃作者の道があったのではないかと考えています。

建築美:隠れた工夫と自然の融合

竹村:ハードとしての恵観山荘というものがあり、ソフトコンテンツが建物の中で紡がれていくというか、生み出されているのが面白いです。370年前に一条恵観さんという方がいらっしゃって、深い見識があり、さまざまな交流もある中で、新しいことを生み出し、支援者のようなこともされていた。一方、これは当協会のテーマでもありますが、伝統をどう現代・未来に伝えていくかという視点で、一条恵観山荘というものを恵観さんがいない中で案内人としてどのように伝えていらっしゃるのかお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか。

川野:まず、一条恵観山荘という建物は、当時、天皇が遊びに来ていたような場所であるという格式の高さがあります。現代になり、その山荘に私達一般庶民が入ることを許されているわけです。京都には恵観公の兄が作った修学院離宮や、恵観公の叔父が作った桂離宮という有名な建物がありますが、実は今この2つの建物の中には入ることが出来ないんです。一条恵観山荘、修学院離宮、桂離宮という同時代に作られた皇族の別荘の中で、現在、建物の中に入ることが出来るのは、この鎌倉の一条恵観山荘だけなんです。そういった意味でも素晴らしい体験が出来る場所なわけです。私は山荘の案内人として、この場所が「大人のアトラクション」になれば良いなと思っています。

川野:お客様の中には建築の専門家であるとか、お茶を嗜んでいる方も多いのですが、私がこの山荘の魅力を伝えていきたいのは若い世代の方達や一般の方達です。山荘に入って頂くと直ぐにお分かりになりますが空気が全く違うんです。私はその空気を楽しんで頂くためにも、山荘に入る時には、ある種の緊張感を持って入って頂くようにしています。例えば、建具や壁や柱を触らない、勝手に戸を開け閉めしない、畳の縁は踏まない、こういった作法もかつての日本では当たり前のことでした。山荘内では、少しばかり非日常的な緊張感を持って、そういった基本的な作法も楽しんでもらえたらいいなと思っています。私自身も言葉遣いや所作など山荘の格を下げないよう心がけています。

川野:そして、私が本当に素晴らしいと思うのは山荘の中にある陰影なんです。現在は、蛍光灯の明かりで部屋の隅々まで明るくし、影を排除する生活が当たり前になっていますが、恵観公の時代には電灯などは当然ないわけです。ですので山荘の中は自然光と行燈の明かりだけです。お客様は「暗い」といって驚かれますが、光と影を使ったおもてなしと言いますか、それが当時の日常の明るさだったわけです。谷崎潤一郎の随筆に『陰翳礼讃』という作品がありますが、光と影の中にこそ、当時の文化人達は「美」を見出し、陰影を活かすことで独自の美学を育んでいたのではないでしょうか。季節や時間や空間。行燈の揺らめく明かりの中でこそ映える建具や家具。光と影の中に何を見るのか。日本人の美意識と言いますか、そんな恵観公の趣向を多くの方達に感じて頂けたら良いなと思います。

竹村:なるほど。お話を伺わせて頂いている中で、案内人をされていらっしゃる時は正装で、紋付袴を着けられているという意味が良く分かりました。

川野:この先は「寛永の雅な世界」です、ということを示す意味でも紋付袴なんです。

竹村:ちなみに、修学院離宮と桂離宮は見学は出来るものの、外からただ見るだけなんですよね?

川野:そうなんです。ガイドに案内されながら庭を歩き、外から建物を眺めるだけなんです。そういった意味でも、この一条恵観山荘は貴重な場所です。本物を見て本物を知るということは、頭の中の話ではなくて、実際に体で感じること、体験することなんです。それこそが「大人のアトラクション」なのではないかと思います。

竹村:川野さん自身が俳優であり、表現者であり、そして、山荘の運営スタッフの皆様がお客様をお迎えする本気度があるからこそアトラクションとして感じられるようになるのでしょうね

川野:恵観公の美意識を多くの皆様に感じて頂きたいんです。見えないものを見ようとする感覚を体験してもらいたいんです。陰翳礼讃に繋がってきますが、光と影があるという事は見えない部分もあるわけです。そこを如何に見ようとするのか? そこが大切な感覚なんです。そしてそういう目を持つと、唐紙に雲母で刷られた柄が浮き出たりとか、棹縁の歪みであるとか、柱々の木肌の違いとか、天井の板目のズレであるとか、最初は見えなかったものが、段々見えて来るんです。そういう細やかな思考こそが日本人が育んで来た美意識だと思うんです。

川野:こういう建物を管理して後世に残していくことは、古の日本人が持っていた精神性を伝えていくことにもなります。ですから私は、恵観公の趣向や家具建具をご案内しながらも一番分かって頂きたいことは、見えないところに何があるのか? 見せないことで何を見せようとしているのか? そういう日本人の精神性を感じてもらいたいと思っています。また、そういうことによって芸術を見る目も養われると思うんです。 

竹村:川野さんは何度も案内をされながら色々な発見をされている中で、日本の精神性がこの場所にあり、立ち返れる場所であり、その場所を運営スタッフの方達と一緒に伝えられているんだなと感じ入りました。それと同時に、昔の方達がいかに教養があったかということも痛感します。

川野:私も最初は説明を受けなければ全く分かりませんでした。でも当時の人達は説明なんかなくても分かったのでしょうね。恵観公がいらっしゃる最上段の間に向かって格が上がっていく部屋の趣向の変化。そのことに気付かなければ、恵観公とお会いした時に恥をかいてしまうわけですよね。天皇が遊びに来ていたような場所ということもありますが、相当教養の高い方達をお迎えする迎賓館みたいな場所だったんだろうなと感じますね。そう考えると、私達はもっともっと勉強しなきゃいけないなと思います。

伝統と革新の交差点

竹村:日本文化が奥深いということは、ある程度の教養が必要なわけで、公家が集まれば和歌を読むとか一連の繋がりがあるわけですね。連綿と伝えられているもので、逆にそれが伝統文化に敷居や分かりにくさがあるのも事実だなと思っています。今、海外の方達や一般の方達が来訪している中で、課題として捉えられていることがあれば教えて頂けますでしょうか。

川野:私は一案内人に過ぎず、運営に関わっている人間ではないので、個人的な思いになりますが、この一条恵観山荘の一丁目一番地はやっぱりこの山荘。建物そのものだと思うんです。この「建物」にどこまで拘ることが出来るか、そのことをどう発信して行けるかが大切だと思います。カフェ楊梅亭(やまももてい)や花手水(はなちょうず)、水神籤など、運営の皆さんは、お客様をこの場所にお招きするために日々工夫と努力を重ねています。でもそこを楽しむだけで終わってしまっているお客様が多いのも現実なんです。やはり山荘そのもののファンをどう増やしていくのかがとても大切ですし、私はそこに拘っていきたいと思っています。「山荘で恵観公の趣向に触れて頂く」先ずそこが最初の一歩となるような発信を考えていけたら良いなと思っています。

竹村:日本の伝統文化でも同じ問題があって 伝統を伝統のまま伝えているだけですと、古いから良いとなってしまいがちですが、現代にとっての価値に転換することが必要ですし、そこに広がる周りの職人さんであったり、支える方達がいらっしゃって、それを見るお客様がいる、工芸品であれば購入するお客様がいて、全てが噛み合っていかないと上手く回っていかないですよね。次世代に繋げるということは、ハードとソフトと、そしてそれらを支えるお客様、我々一人一人がその意識を持っていかないとならないですよね。川野さんは発信をされますし、全力でお話もされる。それくらいやられるからこそ本当に見えてくるものがあるのではないかと思っています。

川野:ハードとソフトのお話がありましたが、以前、師匠のご子息である、善竹大二郎さんと共に山荘で狂言会をやらせて頂いたことがあるんです。これは先ほどお話した恵観公のお手紙が与えて下さったご縁だと思っています。本当に光栄なことでした。そういう使い方も出来る「場」が一条恵観山荘なんです。日本人の精神性や文化を色濃く伝える「場」であると共に、実演の「場」でもる。芸能者の端くれである私にとっても、ここは本当に貴重で大切にしたい場所です。

竹村:狂言会などの芸能をやることも出来るのですね。冒頭の手紙のやり取りのお話ですが、それがきっかけで、大蔵流狂言をやりませんかという話になり、この370年間脈々と繋がっていくという嘘のような本当のドラマティックな話になっていますよね。

川野:見事にそうなっていますよね。その手紙に書かれていたのが大蔵流狂言のお家元でなければ、案内人は私ではなかったかもしれないですし、別のお流儀の狂言会になっていたかもしれません(笑)

竹村:改めてこの建物の魅力ですとか、文化的な価値について教えて頂いてもよろしいでしょうか。

川野:まず一条恵観山荘は生きてます。本当にそう思います。この建物は370年間生き続けています。茅葺屋根の茅ももちろんですが、山荘内の建具や建材で使われている素材から自然の呼吸が感じられます。現代社会は「使い捨ての文化」と言いますか、古くなったら捨てれば良い、新しいものを買えば良いみたいになっていますが、この山荘に身を置くと、経年劣化ではなく、経年進化とでも言いますか、年月と共に深まっていく、時間の経過によって深まっていく趣を感じます。例えば、葺き立ての柔らかな茅が時間と共に萎びていって、やがて苔が生え、年月が醸し出されて来る。恵観公はそういった時の流れを見ていたのではないでしょうか。自然と共に変化し、自然と共に生きていく。恵観公の自然に対する愛情や、客人を持て成すための様々な遊び心や雅な趣向を感じさせてくれる場所が、この一条恵観山荘であり、当時の日本人の美意識や精神性を感じさせてくれる貴重な文化財と言えるのではないでしょうか。

竹村:ここまで一条恵観山荘のお話を伺ってきましたけれども、角度を変えて、十年に渡って案内人としてご活躍される中で、ご自身は劇団を主宰されて、いわゆる俳優もされている、そして狂言師の顔も持たれているわけで、この一条恵観山荘を通して、ご自身の生き方や俳優業などのお仕事にはどんな影響がありましたか。

川野:現代の日本人は西洋思考が強い傾向があります。それは私たち演劇の世界でも同じで、僕が演劇を学び始めた頃、演劇の基礎はロシアの演劇論から、発声はイタリアの声楽に学び、身体表現はジャズダンスやバレエから学んでいました。それを当たり前のように享受していたんです。今思うと、何処にも日本がないわけです。狂言を学び始めて、観阿弥、世阿弥と出会って、この山荘で、一条恵観に出会って、日本にはこんなに素晴らしい文化や芸能があるのに、どうして日本人は「日本から学ばないんだろう」と強く思うようになりました。

川野:私自身も山荘に入るようになって、恵観公の趣向に触れることで、物の見方や感覚が一段深まった気がしています。私は絵を見るのが好きなのですが、ゴッホの『靴』という絵があるんです。何でもない汚いボロボロの靴です。最近、ゴッホはこの靴を描きたかったのではなく、この靴を履いている人間を描きたかったのではないかと思うようになりました。これが正解か否かは分かりませんが、他にも、絵の中に描かれている人間や動物の視線の先を想像するようになりました。この視線の先に何が見えているのだろうと。つまり「見えないものを見ようとする」。これは演劇でも良く使われる言葉なのですが、山荘という場所、恵観公の趣向を体験することで、私の中にそういう感覚が血肉として身に付いて来ているんじゃないかと感じています。これは俳優として大いにプラスに働いていると思います。

川野:近松門左衛門が恵観公に仕えていた侍だったという話をしましたが、その近松の言葉に『虚実皮膜』というのがあるんです。簡単に言うと「嘘と真の間にこそ芸の本質がある」ということを説いている言葉です。近松のこういう感覚がどこから生まれたんだろうと考えるんですが、もしかしたら、この山荘での恵観公との関係から生まれたんじゃないだろうかと妄想しています。山荘の中で、風の流れを感じ、心を澄ましていくと、だんだんと戸や壁が消えていって、杉とか檜とか赤松とか桜とかの柱だけが残って、ただ林の中に身を置いているような不思議な感覚になるんです。恵観公の作り上げた野趣の美意識、誇張と省略を上手く使ってお客様をもてなす心。そういった恵観公の趣向が、多感な時期の近松の感覚を研ぎ澄ましたのかも知れないと考えても不思議じゃないと私は思っているんです。

竹村:一条恵観山荘、370年前のものが今生きているということは、川野さん、そして運営されている方々、その前の方々が次世代に繋げていくということをされていらっしゃるから、今ここにあるということなんだと思います。恵観公の凄さを頭で理解するだけじゃなく、実際にその場に行って、体感したいです。鎌倉に足を運ぶ、その一歩から何かが変わるんじゃないかということを強く思わされるお話をありがとうございました。

川野:是非ともお運び下さい。心を込めて恵観公の趣向をご案内させて頂きます。いつでもお待ちしております。

竹村:最後に川野さんから今後の活用展望も踏まえて、皆様に一言頂ければと思います。

川野:恵観公はあの山荘に多くの芸能者を呼んで、芸を披露させ、客人をもてなしていたのではないかって思うんです。現代のこの一条恵観山荘でもそういうことがもっともっと出来たら嬉しいなと思っています。いつかまた狂言会もやりたいです。

対談者プロフィール

川野 誠一(かわの せいいち)

国指定重要文化財「一条恵観山荘」案内人/大蔵流狂言方/劇団大樹主宰

大分県出身。「都会で疲れた人達が大きな樹の下でひと休み出来るような演劇を」と1995年に劇団大樹を旗揚げ。劇作家/み群杏子の作品に取り組み、花と音楽で彩る「み群杏子の世界」をコンセプトに上演を続ける。大蔵流狂言方/善竹十郎師に師事。声と身体のワークショップ「狂言処=う舞謡~」を主催。民族歌舞劇団「荒馬座」第39期研修生を修了。国指定重要文化財「一条恵観山荘」案内人。
ウェブサイト(一条恵観山荘)

竹村文禅

(一社)日本伝統文化協会会長。
現代、そして未来において、伝統文化が持つ価値をどのように見出し、次代に継承していくべきか。生活者の視点、企業人としての視点で、伝統文化の価値のリブランディングを目指し本協会を設立。

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