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Discovery Tradition in Japan #6 植向 祐治(うえむき ゆうじ)氏

Discovery Tradition in Japan #6 植向 祐治(うえむき ゆうじ)氏

「Discovery Tradition in Japan」は、様々な形で伝統文化と関わりのある方にお話を伺うインタビューシリーズです。活動やその裏にある想いから伝統文化の輪郭に迫っていきます。ジャンルにとらわれずご紹介していきますのでどうぞお楽しみに。

竹村(JCBase:私どもの協会は、特に30代40代ぐらいのビジネスパーソンで仕事を忙しく頑張ってる人たちをメインターゲットにしております。今回はそんな世代の植向祐治さんにお話をお伺いします。

昭和の名工

竹村:早速ですが、数寄屋建築を手掛ける藤森工務店について、まずは全く知らない方のために改めて教えていただけますでしょうか。

植向祐治氏:我々が藤森明豊斎(めいほうさい)と呼ぶ創業者・藤森豊は、端午の節句で知られる京都の藤森神社の神官を先祖にもち、室町末期の平家源氏の争いで家を守るために地方へ分かれました。諏訪地方に移住して、神社との繋がりを保ったまま社寺建築を続けて今に至ると聞いています。全国には他にも藤森の系譜で社寺工務店をされている大工さんがいらっしゃると聞いていますが、うちの会社は現在、数寄屋の工務店として日本橋で社屋を構えています。約20年前までは六本木の芋洗坂の藤森ビルが社屋でしたが、再開発でこのビルもいずれなくなると伺っています。私は入社してから著者について知りましたが、初代 藤森明豊斎は茶室作法(さくほう)という今では絶版となっている茶室の作品集を書いた人物になります。バブル期に数寄屋や茶室は新建築になるようなブームがあり、大学や研究室はこぞってこういった本を購入していました。初代は1996年に亡くなられており私はお会いしたことがありませんが、私は3代目の鞄持ちのような形で時間を一緒に過ごさせてもらい、そこから初代の考えなどを聞いていました。

数寄屋建築とは?

竹村:昭和の名工として名高い藤森明豊斎ですね。数寄屋建築というのは分かりやすく言うと、お茶室を含めた日本の伝統的な建築技法と捉えてよろしいのでしょうか。

植向:数寄屋とは何かとよく聞かれますが、曖昧な性質を持っているので、数寄屋と社寺が違うという事すら建築関係者であってもよく分かっていないことがあります。茶室の仕事をやりたいのに社寺の仕事をやっている宮大工さんのところへ大手ゼネコンやプロの方が相談に来られたりもするようです。マニアックな話ですが、数寄屋というと吉田五十八(いそや)さんの提唱した「近代数寄屋」というモダニズムにもつながる建築の印象が強く、こちらをイメージする方が多いです。そもそもが数寄屋=茶室、和室の中でも真・行・草をイメージされたり、「数寄(すき)」からもわかるよう好き勝手やるような数寄屋もあったりと、日本固有の特殊な「文化」の一形態かと思っています。元々は利休さんの小さな空間からスタートしたんでしょうけど、江戸時代には楼閣建築とか揚屋や料亭とかその後の時代には一般の住宅の意匠に採用されていくというような、なかなか一言では言い表せられない、あえて一言で表すと文化そのものというような建築になります。

竹村:利休という言葉が出てきたように安土桃山時代に書院茶ではなく狭い四畳半といった空間で茶をやる侘びの文化の中で数寄屋というものが生まれてきて、江戸時代に料亭を含めて文化の中で時代とともに変化をしていき、近年だと近代数寄屋がフューチャーされている。つまり、時代とともに常に変わっているということなんですね。

植向:そうです、近代数寄屋に見慣れている人からすると、コテコテの江戸数寄屋を見て違うと感じる方もいらっしゃいます。しかし私は数寄屋建築がその時代の社会を反映していると思っているので、手間のかけ方など近代数寄屋と戦前の数寄屋を比べると違うと感じるのは当然のように思えます。

竹村:数寄屋とは好き勝手にやって好きなものを追求すると考えると、お金をかけて最高の技術で日本の建築文化の推移を追いかけてきているというイメージであっていますか?

植向:以前はそうだったと思います。「新建築」という雑誌に数寄屋が取り上げられることはバブルの頃はうちの会社を含め数寄屋建築がよく載っていましたが最近は少なくなりました。以前は新建築だったのかもしれませんし、今も和モダンといった表現で載ることもありますが、お金と最高の技術が必ずしも私達の造る数寄屋に向いているわけではありませんので、今はもっと別の現代建築に活かされているのかもしれません。実際、伝統的な建築の部分的なイメージが現代建築や商品、車等にも引用されています。インバウンド効果で追い風になっていますので、今後に期待します。

入社の理由は怖いもの見たさ?!

竹村:先ほど3代目の鞄持ちから始めたとおっしゃっていましたが、植向さんは入社してどのくらいなんですか?

植向:17、8年くらいですね。ここがまた面白いところですが、うちの会社は歴代みんな血縁関係がないんですよ。2代目は娘さんとご結婚されて継いだようで、だからみんな名前が違うんです。9割くらいの工務店は子や親戚が継ぐと思うんですが、たまたま藤森工務店にはそういった感覚がないですね。

竹村:言い方を変えると、工務店をどう残すのではなく、数寄屋建築をどう伝えていくか、その時々に合った人は誰かと捉える事もできるような気がします。植向さんはどうして数寄屋建築の世界に入られたのですか。

植向:大学院でそもそも自分が目指していたのはアトリエ系の事務所でしたが方向転換することになりました。学部の頃には恩師から東京にある有名な別の数寄屋建築の会社に行かないかと言われた事もありました。行くなら3年時のインターンから行かなければなりませんでしたが、その当時の植向青年は興味が湧かなかったんですよね。その理由はその会社が施工主体だったこともありますが、今振り返ると数寄屋や伝統への考え方、その会社の向かう方向に私との縁がなかったのかもしれないと思っています。

最近会社の向かう方向について考える機会がありました。コロナ禍に京都の工務店さんと交流会をしまして、会社訪問や社会科見学といった内容で国宝や重要文化財の数寄屋建築を二日間かけて6名でまわりました。この時に仕事に対する姿勢や数寄屋に対する向き合い方などを話し、うちの会社と通じるものがあると感じました。

そしてまた恩師の影響ですが、大学の非常勤講師が藤森工務店3代目の友人だったようで、誰か良い人はいないかと話があったらしく、声をかけられました。怖いもの見たさで入ったところもあるかもしれません。そのとき研究室の先輩にはつらくても3年、本当は5年くらいはそこにいないとダメだよ、そうしたらまた何か見えてくるからと言われました。本当にその通りで3年5年と過ぎるたびにこの世界が分かってきて、そこからまた数年して、自分が数寄屋の技術を未来に引き継いでいかないとなと考えるようになりました。

竹村:面白いですねー(笑)。当時の植向青年からすると、今ここで代表取締役としてこの会社をリードしているなんて夢にも思わなかったでしょうね。

植向:いや~、恩師からも言われました(笑)。自分がまさか藤森の代表になるなんて想像もしてなかったよと。みんなから独立すると思われていたので。結局は縁なんですよね。自分も人生で縁を大事にしたりとか、風には逆らわないとか、追い風になるような方向に進んでいこうと思っています。

伝統のための植向改革

竹村:植向青年から植向代表になって、数寄屋建築も変わっていっていると思います。今までは家の中に茶室を作りたいとか、畳がよしとされてまだまだ残っていましたが、今は畳のある家も少なくなっているかと思います。どのようにお客さんは変わってきていますか?

植向:戦後〜バブル期に数寄屋のブームを作っていたのは大企業のトップといった大富豪の方だと思いますが、今はそういった方たちがお茶をやること自体が少なくなる一方で、個人で真摯にお茶と向き合い自宅にお茶室を作りたい方が増えています。その場合、限られた規模と予算の中では、職人さんを育てることができないという課題に直面しました。全てに手間を潤沢にかけることはできず、どこかしら削減しなければなりませんから、そうすると技術がだんだん廃れてきます。気合を入れてやると意気込んだ仕事で、経理からこの現場はどうなっているんだと言われた事もあります。見積りと実際の手間があっていないと言う事です。

身を削る仕事も時には必要だとは思いますが、長期的に職人さんを育てることを考えると、少し風向きが変わってきたのがリーマンショックだったかもしれません。同業者や年配の職人の方が辞めざるをえない社会状況でしたが、その間も藤森では常に若い人を入れていました。そうすると藤森工務店が社会的な環境の変化によって生き残っていきます。その時によく依頼があったのが大手ゼネコンや企業からの仕事でした。それまでは人手がないので断っていましたが、大手も他に出来る会社も人もいないためか歩調をあわせてくださったので、少しずつ仕事が出来るようになりました。

最近よく思うことがあります。京都で金物を作っている職人さんのところによく仕事を依頼しますが、その職人さんの奥さんから「うちの主人、植向さんから電話があったら喜ぶのよね」って。何でですかと聞いたら「みんな安い仕事ばかり振ってくるなか、植向さんの依頼は面倒くさそうだけれど、植向さんからの仕事をやっている時が一番イキイキしているのよ」と言われて嬉しかったことがあります。このように予算のある仕事って大手の仕事を引き受けることで生まれてくるんですよね。大手の方々がそれを意識しているのか分かりませんが、自分たちが扱っている仕事よりももっと人件費のかかる仕事を彼らは多くしているんだと思います。私たちもいつも低コストの仕事をしているわけではなく適正価格でと社員も含めて常に話をしていますが、実際にはそんなに余裕のある仕事はなくて。

そんな中私も20年弱やってきて、仕事をしない中間の人たちを無くそうと感じました。いろんなところを経由すると高くなるじゃないですか。若い頃はルートも探れず間を抜くことができませんでしたが、5年10年仕事をして分かってきたところ、仕事をきちんとしている中間の方は構いませんが、右から左に流しているような場合にはなるべく次回からは直接やらせてくださいと言うようになりました。予算のしっかりとあるB to Bの仕事を受ける、中間を減らして適正価格にするということを心がけています。

中間に入るという話で、とある城の改修工事で桑の板の末端価格が3,000~5,000万となり、そんな高価なものは使えないとなった話を聞いたことがあります。後日、知り合いの銘木屋さんに聞いたところ、元々は300~500万の桑の板が中間に10社ほど入って10倍の価格になったみたいでした。気をつけないとものも使えなくなるし、人も離れていくし、誰も嬉しく無いですよね。なるべくこういったことは避けたいですね。

竹村:中間マージンを下げたり、マーケットをB to CからB to Bにされたり、植向改革をされているんですね。そのスタンスが一貫しているからこそ信頼があって発注も得られ、良いサイクルをもう一度作り出しているように感じます。このサイクルはバブル期のような一過性のものではなく、良いなと感じる人がいる限り続くように思います。発注側も意識を変えていかないといけない問題で、高単価になるとマーケットがおかしくなるし、安かろう悪かろうでいいとなれば職人も育たず、なんちゃって数寄屋になっていきますよね。ここを藤森工務店のみなさんは正しく伝えていこうとして、そしてお客さんを含めた受け手側が正しくそれを見極める、お互いの関係がないと本当に良い建築はできないんだなと感じました。

植向:自分たちは茶道などの家元に出入りさせていただいておりまして、神楽坂の遠州流や鎌倉の宗徧流、広島の上田流、表千家の東京出張所や不白流、そのほか能の観世流のメンテナンスなど、家元関係の仕事をする社会的責任があるというのはよく言われますし、根本にあります。みなさんお会いできるだけでありがたいような存在です。そういった方々が困らないように、技術が安かろう悪かろうにならないようにしています。また、国からの仕事で伝統文化を守ろうといった動きもありますのでありがたいなと思っています。

時代に合わせた変化

竹村:世の中では建築業=紙文化というイメージがありますが、何かされているんですか?

植向:自分ではそんなにイメージしていませんが、うちの会社は80年近く紙で勝負してきて、図面も基本的にA1だとかで原寸サイズを描いたり。冒頭で話したように日本橋へ引っ越した時20年前と、10年前に図面などの整理をしています。なので今あるものはこれ以上は減らせない図面ですね。しかし開くこともなく置いてあるだけで、図面だけでなく竣工写真やアルバムをどうしようとなりまして。手始めにまずは業者さんに頼んでアルバムのデータ化を進めています。図面関係は膨大な量があり業者さんに頼むと高額になっているので、機械を準備してインターンなどでうちに来ている学生に対応してもらう方が良いのではと最近スタートしました。紙面のデータ化は、時代に合わせた変化の一つです。

竹村:紙面のデータ化以外の改革も進められているんでしょうか?

植向:働き方改革もその一つですが、藤森として数十年溜まりに溜まったものの最適化を図っています。常に無駄は無いかとか、如何に効率的に業務を行う事が出来るかなども探っています。例えば、不必要な会議はなくし、私語は控えて皆集中して業務に従事しています。10年以上続けていた月一の飲み会も季節毎のイベントに変更し、飲み会頼みだったコミュニケーションは休憩中や業務時間外に行うようにしました。すごく当たり前の事ばかりですが、昭和・平成・令和を経ている会社には、変化をするのにもそれなりの努力と機会が必要ですね。

竹村:伝統を守る藤森工務店の中で、植向さんはどんどん新しいことも進めていると感じますが、まわりの方は付いて来ていますか?

植向:他の役員からも共感を得ていますし、付いて来ていると思います。自分一人が言っていても何もできませんが、みんな疑問があって共感があったからこそできているんだと思います。もしみんなが図面は取っておかないとダメでしょという状況ならできていないと思うので、もう紙が不要になってきているんだと感じています。これからは図面をデータ化するときに再度印刷しても見て分かるものになっているか、そしてそのデータの管理、バックアップをどうやっていこうかと話をしています。

理念「数寄屋の技術を未来に引き継ぐ」

竹村:改めて代表取締役として進めるなかで、理念を定義されたと聞きました。

植向:初代から企業理念を掲げずに口伝としてやってきましたが、数寄屋に興味は無いけどとりあえず仕事をしたい人が会社に入ってくることもありました。理念を掲げないと、数寄屋を好きでない人が来てしまい、そうするとこちらも教育するのは難しく、方向性の不一致から辞めていってしまいます。なので、自分たちが旗を振って同じ方向へ進んでいけるような方たちを採用していこうと思い、「数寄屋の技術を未来に引き継ぐ」という理念を掲げ、共感してくれる人たちを大事にしていきたいなと思っています。

竹村:お客さんも含めて、工務店の方々が良いと思う方に発注して欲しいですよね。

植向:少し前まで、職人さんは社員にせず個人事業主としていましたが、2023年10月からインボイス制度が始まる事を受け、事務所のスタッフや常用の職人さん含め、希望性で雇用形態を問わないようにしました。職人さんは今まで全員個人事業主だったんですが、高校生や専門学校生を採用するときに、みんなが個人事業主を好むわけではないので、ハローワークに情報をあげたり、就業時間や休みをきっちり取ってホワイト企業にしていこうと変えました。そういった事を進めていると社内の女性の割合が増え、非常勤の方も増えたり、海外から図面描きたいですという方が出てきたりしました。あまり意識はしていませんが、数寄屋建築が好きで、この仕事をやりたい人が藤森工務店に集まってくれると良いなと思います。

数寄屋へ興味を持った方々へメッセージ

竹村:職人の世界は言葉で伝えるより見て覚えるようなイメージがありますが、今日お話を聞いてイメージが変わった気がします。伝統を守っていくということは、今までのルーティンを守るのではなく、職人の立場やマーケットの変化、口伝から言語化など時代に合わせて変化していくということなのですね。藤森工務店は、植向さんが引っ張ってアグレッシブに新しいことにチャレンジしていることが分かりました。未来に引き継ぐ理念の中で、これからどのようなことにチャレンジするのか、また、お客さんを含めこれから藤森工務店の門を叩きたい方々にメッセージを頂ければと思います。

植向:根底にあるのは家元制度を支えていくことですが、時代に合わせて伝統を大きく変えることはありません。しかし変わらない事も伝統ではありません。この仕事を未来に残していくことに共感していただき、手間がかかる仕事でもお任せしたいというお客さんとのご縁を大切にしたいです。私は政治家でもないのでみんなを幸せにすることはできませんが、数寄屋を通じて周りにいる人達が少しでも幸せになれるようにしたいですね。またそれに共感していただける方と一緒に仕事をしていきたいです。

対談者プロフィール

植向 祐治(うえむき ゆうじ)

藤森工務店 代表取締役。一級建築士。
広島県に生まれ、酒都西条にて育つ。日本大学大学院卒。在学中、和風の意匠研究を行うと同時に茶道を学ぶ。その後、藤森工務店に入社し、重要文化財含め各流派の茶室普請に従事する。公共茶室や、社寺、個人住宅の設計監理に携わる傍ら、アートワークにも参加。

竹村文禅

(一社)日本伝統文化協会会長。
現代、そして未来において、伝統文化が持つ価値をどのように見出し、次代に継承していくべきか。生活者の視点、企業人としての視点で、伝統文化の価値のリブランディングを目指し本協会を設立。

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