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孤独はエレガンスを破壊する~「鎌倉彫刻の魅力 運慶・快慶のほとけたち」講演会

孤独はエレガンスを破壊する~「鎌倉彫刻の魅力 運慶・快慶のほとけたち」講演会

仏師 快慶の孤独について考えています

昨年の「稀代の天才~運慶とは」に続いて、景和 代表取締役 景山先生の講演会へ参加♡

東京国立博物館「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」開催に合わせ、さらに仏像についての知識を深める機会。聞き逃してはならん。

興福寺中金堂再建記念特別展 運慶

鎌倉時代初期に開かれた大報恩寺は“千本釈迦堂”との別名どおり、鎌倉彫刻の宝庫。快慶と、その次の世代の定慶、行快― 運慶一派の慶派仏師の名品を誇ります。

思えば昨年「興福寺中金堂再建記念特別展 運慶」のレセプションへ伺うことになり、慶派として「明慶」というお名前まで頂戴した私。
(↓ 特設ウエブサイトで誰でも作れた)

「明慶」というお名前まで頂戴

己の中のにわか仏像ブームに加え、初心者にもわかり易い景山先生の講演により「仏像について考える」という新しい愉しみを得ることとなりました。

今回は仏像の造られてきた歴史や意味、素材の変遷から始まり、仏様が持つ道具(持物)の種類、また仏師の道具や、仏像が造られるまでの発願から始まる流れなど、興味津々。

戦乱が続くようになってから、火事になっても軽くて持ち運び易い仏像へ素材が変化していったのも、興味深いお話。この薀蓄を誰かに話したい。もっと広く知らしめたい。

奈良仏師という、興福寺近辺を拠点にした仏師群についてのキーワードを得たのも、景山先生から♪ 像内に納められていた銘札の墨書から、誰の発願で誰が造像した…ということがわかると知り、仏像のみならず仏師について考え、盛り上がりました。

運慶は幸せな天才、快慶は不遇の秀才

景山先生の講演を拝聴するまで単純に「運慶の方が力強くない? 偉くない?」と考えていた私ですが、その楽しく繰り出される数々のエピソードにより、“快慶の孤独”についても思いを馳せるように。

「鎌倉彫刻の魅力 運慶・快慶のほとけたち」講演会

運慶は若い頃から晩年まで無二の天才、迷いや周囲に影響されることなく、創作を続けたようです。当初から流麗な造形美に重厚な作風、源実朝・北条義時などの鎌倉幕府東国武士からの依頼で力強く躍動的な表現も獲得。休むことなく造形美を模索し続ける一生。

そして奈良仏師 康慶の子であるという育ちの良さ、強い政治力。仏師最強!僧綱の最高位である法印に建仁三(1203年)奈良仏師として初めて任ぜられ、息子の六人も全員仏師。嫡男の湛慶も大家として名をなして。最初から最期まで精力的に創作し、幸せなままのカリスマ。

天才ってちょっと不幸なとこもあって、能力が突出し過ぎている分、性格はエキセントリックでアンバランス…なんて定義は運慶には当てはまらず。ちょっとズルくない?

快慶の法橋譲りと孤独

これに比して快慶は洗練された独自の美意識と努力で素晴らしい造像を行っているけれど、慶派に血統の無い身としては、耐え忍ぶ場面の連続。指導者 運慶を支える地味な役回り。

例えば建久六年(1195年)運慶が父 康慶の譲りで法橋より一つ上の法眼を受け、快慶に法橋位が与えられそう!となったときも、結局政治的な意図から位は運慶の嫡男 湛慶に譲られ、快慶は無位のまま(涙)

三つの僧位からなる僧綱位は偉い順に:
法印>法眼>法橋
とか。

しかし最終的には快慶も承元二(1208年)法眼まで頑張りました。でも運慶はこの5年も前に東大寺南大門金剛力士(仁王)像の功績で上記のとおり法印になっています。いやいや、このときの四名の大仏師のひとりに快慶も居たのに(涙)

快慶の著名な仏像の多くは、東大寺大勧進職として源平の乱で焼け落ちた東大寺の復興を果たした重源(ちょうげん)のプロデュースによるものとか。(ちなみに歌舞伎十八番「勧進帳」の弁慶は、東大寺大勧進のためと称してのニセ山伏姿)

真言宗 醍醐寺の弥勒菩薩や、生涯を通して阿弥陀如来立像に取り組み続けてきたのも、重源の指導や影響が大きいよう。ですから重源が亡くなってしばらくすると、理解者を失った快慶は、がっくり意欲を失ったように思えるそうです。弟子が少なかったこともあり、子もなく、快慶の系統はこの後消滅。

あぁ、孤独はエレガンスを破壊するのね。

 

参考:
東京国立博物館 https://www.tnm.jp/
千本釈迦堂 大報恩寺 http://daihoonji.com/

 

 

書いた人

Akemi
武家茶道上田宗箇流、某兵法、歌舞伎、着物と袴、家紋、大本山増上寺を愛す。
モチベーションの源は武家と武将。強くなりたい。
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