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旅がらすの日曜日 ~社寺修復塗師の街並み散策日誌~ 愛知県 岡崎龍城温泉

旅がらすの日曜日 ~社寺修復塗師の街並み散策日誌~ 愛知県 岡崎龍城温泉

文化財・社寺修復を手掛ける塗師の旅がらすによるコラム長期連載です。シリーズタイトルは「旅がらすの日曜日 ~社寺修復塗師の街並み散策日誌~」。様々な季節、日本各地の街並みを探訪、古の遺構にも目を向け、社寺修復塗師ならではの視点で綴っていきます。肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。

街角にひっそり息付く江戸文化 ―岡崎龍城温泉―

とある日曜の昼下がり、暖簾をくぐったその先に広がるノスタルジックな世界。使い込まれた木製ロッカーの脇に籐の丸籠が積まれている。高く広がる天井から下ろした視線の先には、ちょっと派手目な名古屋美人が鏡越しのテレビを観ながらいつもの様に笑っている。
龍城(りゅうじょう)、龍ヶ城とも呼ばれる岡崎城のすぐ北の路地を入った所に大正8年開業の銭湯、龍城(たつき)温泉はひっそりと営業している。とりわけ立派な設えがあるでもなく、東京のそれの様に壁に富士山が描かれている訳でもない。時代に取り残された様なひなびた空間がそこにはある。
銭湯(湯屋)が大衆文化として盛んになったのは江戸時代の初期。当時は混浴が常識だった。二階には客がくつろげる場所があり、身分に関係なく人々が交流できた。そこではただ将棋を指すだけでは収まらず、風紀上問題のあることも様々行われていた様だ。幕末、この混浴銭湯は来日したペリーら欧米人に衝撃を与え「道徳心を疑う淫蕩な人民だ」とまで言わしめた。明治新政府は欧米への体裁のため混浴禁止令を出すが、完全に混浴がなくなったのは明治末期のことだ。一方銭湯の造りに関しては城や寺などの建築様式を取り入れたり、ちょっとした坪庭があったり、人々を楽しませ、寛がせる工夫が様々なされている。現在でも京都や東京辺りではそういった銭湯もいくつか残っている。
僕自身銭湯に通う様になったのは、学生時代の京都。当時築100年近い風呂無しの長屋に住んでいた。窓を開けると目の前にはレンガの煙突があった。すぐ裏が銭湯だった。京都の町家は元々風呂のない造りが多いため、外湯は文化として定着していた。その為、家に風呂を設置した現代でも銭湯を利用する人は多い。実際、僕の家からも歩いて行ける範囲に五軒の銭湯があり、定休日には違う所へ、なんて具合に色々行っていた。そこにはやはり小庭があって、気分も目をも楽しませてくれた。こういう町でこそ銭湯の経営は何とかやっていけるという位だろうか。足繁く通った裏の銭湯は、名前も覚えていない程のひなびた銭湯だったが、僕の懐古主義はこの辺りの景色が原点なのかもしれない。
東京もまた銭湯文化が色濃く残っている。宮造りの銭湯が多いのは関東大震災の復興時、大工が足らず宮大工が街を元気づけようと手腕を発揮したからと言われている。北千住のタカラ湯、三河島帝国湯、御徒町燕湯、入谷快哉湯など、挙げればキリがない。今年廃業した目白台の月の湯も歴史を感じる造りだ。それらの中でも個人的に特に好きなのは台東区池之端の六龍鉱泉。根津神社の仕事の頃によく通ったんだが、ここは東京に多い黒湯(鉱泉)で大体48℃位に沸かしてある。これが鉱泉と薪炊き(現在はガス)の独特のまろやかさで熱くない。それ以降この48℃が僕にとっての適温となり、熱めのお湯にちゃっと浸かって冷ます、を三回から四回、江戸っ子気取りでやっている。その点東京の銭湯はいい。どこに行っても大概熱い。話は戻って岡崎龍城温泉、ここは体感で46℃。そこそこ熱くて感じがいい。

東京や京都をはじめ、こうした大衆文化は街の片隅で微かに息付いているが、多くの街では近年流行りのスーパー銭湯型に形を変えていたりもする。家庭の風呂の普及、進化による銭湯離れもあり、街のあちこちで廃業に追い込まれている銭湯がある。薪から沸かしてやっていたんじゃ、今の世の中到底割りに合わないだろう。それでも今尚開け続けている銭湯は、毎日通ってくれる人達への、そしてこの文化を途絶えさせない為の使命感だけでやっている様に思えてならない。
一番身近な大衆文化。ふと見上げたその先に煙突が見えたなら、ふらっと立ち寄ってみようか。ひっそり佇む江戸の町民の心意気を感じられるかもしれない。

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